2012年2月5日日曜日

オンライン勉強会開催

さて、堺ライター講座では、初心者向け講座シリーズ第一回として「小説とエッセイ。その違い」を準備中です。
それに先立ちまして準備がてら、ブログのコメント欄を使用して、誰でも参加できるオンラインの勉強会を開きます。

勉強会で共通の話題にするためのテキストは、辺見庸さんの著書『もの食うひとびと』。辺見さんが世界のあちこちで人々が食っているものを、実際に食い、旅したルポです。「ダッカの残飯から、チェルノブイリの放射能汚染スープまで、食って、食って、食いまくる」旅とはどのようなものでしょうか?

角川文庫から出てまして、ちょっと大きな本屋さんや、ブックオフ等の古本店でも頻繁に見かけますから、比較入手は容易な本ですねー。

まずは、この『もの食うひとびと』収録の、最初の二編「残飯を食らう」「食いものの恨み」を読んだ上で、エッセイ、文章の技術に関して、この記事に自由にコメントをつけていってくださいね♪

参加資格等は特にありませんが、テキストの一読と、固定のハンドルネーム使用をお願いします。
発言は随時行ってくださって結構です。このエントリーでの発言期間は、2月一杯程度の予定でいます。

※2/6 追記:コメントはコメントに対する返信を使用せずに、エントリーに対して直接コメントを投稿していく形式で行います。

※2/7 追記:アカウントを持ってない人でもコメントを書き込めるように仕様変更。

34 件のコメント:

  1. このコメントは投稿者によって削除されました。

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  2. てすてす。参加者のあらいです。よろしくm(_ _)m 初回テーマの「辺見庸」をリクエストしました。彼の文章は意図がむき出しで襲いかかってくるところがイイ。わたしの最も好きなアッバス・キアロスタミの演出とは真逆ですが。。

    (削除すると上記のように表示がでるんですね……)

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  3. ぼくもてすてすです。キアロスタミはイランの映画監督。彼の映画のテレビ放送があった次の日に空港で「え、昨日の映画って監督いるの?」という会話を小耳に挟んで、よしっと思ったっていうエピソードがありましたね。

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  4. 「残飯を食らう」は、もう読みながら胃袋にすっぱいものがこみ上げてぐるぐる言い出したね。俺は、五感を刺激するように意識して文章書くようにするんだけど、くらくらしたなー。

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  5. 嘘はないんだけれど誇張は感じるんだよ。意図的な要素の抽出というか。そこが策士。ふちがみくんと似ていますね作風。

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  6. そう、嘘は言わないように注意はしているけど、意図的にフォーカスはあてるんですよね。どんな画面に切り取るか、みたいなのは。まず言いたい事があって、逆算で一番効果的なフォーカスを考える。でも、そこに関してはキアロスタミなんかも同じじゃないのかねー。

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  7. アカウントない人でもコメント書き込めるように仕様を変更しましたー。

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  8. キアロスタミは限りなく透明でしょ。でも辺見庸は本人が前にぐっと出ている。そこが大きな差だと思うんだけれども。

    先日ね、とある人物を取りあげた展示会で、なんの変哲もない書簡の宛名書きを拡大トレースして額装にまで引き上げたシンプルな現代アートを見る機会があったのね。
    額も主張のない明るい木で、背景も白。文字も薄ぼけた墨色。多くのひとは「ああ、宛名書きをアートにしたのね。へんなの」で通りすぎる。けどもわたしはそれから目を離せなくてね。なんの意図もないと見せかけて、ものすごい意図があるわけよ。だってただの封筒の宛名書きだよ。そもそもなんで額の中に入ってるねん、と。
    ふつうすぎて多くのひとは『そのことにすら』気づけない。芸術に昇華されていることにすら気づけないわけよ。
    これはものすごいとおもったね。ものすごい存在感だった。

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  9. 書簡の宛名書きのアート。閲覧者に対して、「あなたに宛てての作品ですよ」ってことを純化させるのが意図なんですかねぇ。

    昨日妹から、「うまい絵って何?」っていうような質問をされたんだけど、見た目の小綺麗な絵をうまい絵とは言わないと思うのね。「流行っている絵」とか、「キャッチーな絵」もイコールではないよね。重なることはあっても。「キャッチーな絵」は比較重なる部分が多いかとは思うけど、ここで俺が思う「うまい絵」というのは、作り手に意図があって、その意図が受け手に届くように様々なことがなされている絵ということではないかと思う。題材だったり、メッセージの内容であったり、演出方法であったり、その他もろもろ全部ひっくるめてって意味で。

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  10. このコメントは投稿者によって削除されました。

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  11. 書簡アートは特定の人物展の一環だったので、当の人物を浮き彫りにするために制作者が当人から受けとった(のであろう)リターンアドレスを使用したもの、というかんじでした。
    出展者は山本浩生という方です。

    意図を隠すという行為は、対象をより純化した形で受け手に届ける作業かとおもうので、そんなことをしようとする人物は、まさに神に挑戦するかのような強いエゴの持ち主と言えるでしょう。
    もちろんそれだけでなくエゴにはいろんな形があるわけですが。
    そういう意味では、課題の辺見庸は……。(ちょっと考える)

    何をうまいとするかは主観ということかな。でも、ふちがみくんの意見にはおおむね同意。
    わたしが絵をみるならば一種技術である演出よりは、題材とメッセージを重視します。

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  12. しかし、まぁ、この辺見さんとキアロスタミの違いって、この場合エッセイと物語の違いと重なるんじゃないかなぁ?

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  13. 渕上です。書き込みが反映されないとのお知らせがあったので、テストします。

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  14. こんばんはー。中途半端なハンドルネームで失礼します。
    参加希望です! よろしくお願いします!!
    てすてす。

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  15. >谷さんへ

    ようこそ~。よしなにお願いします。

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  16. ああ、まさにそうか。>エッセイと物語の違い
    では、、、主観カメラを利用してなにがしかの思うところを語るのがエッセイ?

    たにさん、どうぞよろしく~。

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  17. >エッセイと物語の違い

    そうね。「私はこう思った」の「私」が……濃度はあれど……いないエッセイってのは、無いんじゃないかと思うんだけどな。

    エッセイに必要な条件とか要件とかって、何か他にあるかねぇ?

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  18. エッセイってのは、モチーフが剥き出しになって、作者のいいたいことを直接伝えようとしているものってことになるのかな?

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  19. ちょっと、テクニック的な話になるのかもしれんけど。

    『残飯を食らう』のテキスト。冒頭から読むと、
    13ページ
    2行目
    >天から振り地からも~(中略)~おびえながら。
     から、
    7行目
    >未練である記憶を消したい。

     までが、主観カメラを強く意識したような描写になってて、その後しばらく「私」が消えた描写が続く。
     で、

    14ページ
    10行目
    >地上ゼロ・センチの必死の調理。

     の一行がいきなり主観が飛び込んでくるかんじだと思うのね。それまでの描写が突然フォーカスされる。

     13ページ、2行目から7行目の主観の描き方って、枠作りじゃないかなと思うのね。こういう経験をしてて、こういう前提の人の目線で描きますよっていう、読者に対して作者の個性を提示するエリア。

     んで、そのまま主観にゴリゴリいくんじゃなくて、一端主観カメラが引いて(主観なんだけど)俯瞰したかんじで、カメラが情景描写を行っている。多分ここでまで主観ゴリゴリでいくと読者が引いてしまうからだろうね。

     ある種、カラーが透明になっていくのに、突然14ページ10行目で主観がガツンと来る。その対照がすごく効果的。構成されているワードも、単語1個1個がかなりそぎ落とされている。

     この短い一ページの間に、かなり濃密な主観の押し引きがあると感じました。

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  20. 課題図書、昨日ブックオフで入手しました!
    これから読みます(出遅れてる人……)。

    読み終わったらまた書き込みに来ます。今月中に。

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  21. たにさん>
    読むのは、最初のふたつだけでいいよー。

    あ、全部読んじゃだめっていうんじゃなくてね。

    ぼちぼちペースで!

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  22. ちなみに、平行していくつかのエントリをたてて、議論していくつもりです。テーマ、課題図書の募集もしていきますよ~。

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  23. 読みましたーーー!!!
    気付いたら5話目ぐらいまでいってました。
    これは……私のストライクゾーンです。残飯、衝撃的でした。

    「主観カメラ」というものを意識して1話の該当部分をチェック。
    なるほど。確かに。
    意識して読むとまた印象が違ってきますね。

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  24. たにさん>

    ストライクですか! それはよかったです。さもありなん、という気もしますが。

    さて、たにさんが印象に残られたのはどこのあたりになりますか?

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  25. さもありなん、ですかねぇ。

    印象に残ったシーン……1話ラストの観覧車の場面とか。
    浮き沈みするリアルな景色。なのに何とも幻想的。

    まるで神視点になったような。
    あ、これが「主観カメラ」ってやつなんでしょうか?

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  26. 「主観カメラ」と「神視点」について考えようと思って、コメントを上から読み返していました。
    あらいさんのコメントに出てくる山本さんが気になってググったらブログやってはりますね。

    http://d.hatena.ne.jp/yamamomomo5371/

    閑話休題

    たにさんの言う「神視点」は、今回初出ですよね。(あらいさんのコメントに「神への挑戦」は出てきますが)

    「神」が意味することって信仰のある人とない人など、人によってばらつきがあるんじゃないかと思うんです。俯瞰した視点で見ているというのを「神視点」という場合もあるだろうし、より超越的なものの存在や運命といったものからの視点というのもあるだろうし、たにさんの感じた視点をもう少し説明してもらうとどうなんでしょうか?

    僕は、わりと後者。たにさんのコメントを受けて、再度原文を読んだんですが、超越的・運命的な視点を、読者が(疑似)体感するような書き方ではないかと思いました。

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  27. どんどん読んでます。

    「神視点」について。
    どっちかというと前者(俯瞰した視点)のニュアンスで書きました。
    ……が、読み進めていくうちにフト。あちこちに登場する観覧車には「輪廻」の意味も含まれているのかな? なんて思ったり。

    レストランつき観覧車の話でそんな描写があったような。

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  28. おお、読むの、追い抜かれてますね。

    主観カメラか客観カメラかの対立軸と、俯瞰視点かそうでない視点(近接視点とでもいうか)の対立軸が別個にあると考えた方がいいですかねー。

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  29. ふちがみくんにより別の対立軸上とされている客観カメラと俯瞰視点が、びみょうに似たような意味にとれます。いわゆるどちらも三人称ってやつ?
    神(超越存在)視点が別にあるというのは、なんとなくわかります。

    わたしがそもそもこの作品を議題にしたりゆうは、その主観カメラ(一人称表現の濃さ)にあります。本来なら、虚構を交えず事実をありのままに報告するはずのルポルタージュが、なぜ筆者の強迫観念にも似た幻想フィルタばりばりの超絶飛行主観カメラを通してわざわざこんなに気持ちわるく描かれているのか? もしかしてこれは狙っている。。? つまりはルポじゃなくエッセイなのか?? などと能書きすら疑ってかかったんですね。

    いえ。ほんとうは後から裏表紙に「ルポ」って書いてあるのに気づいて、、、いやあまいったね。でも、議題に向いていると思ったのは本当です。筆者の意図が濃く出過ぎている「馬脚」の部分が色気かと思ったわけです。

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  30. 荒っぽい分類で申しわけないが、山本浩生さんの絵やキアロスタミの映画とは逆方向ってことです。
    そこが面白いなー、と。

    ほら、ふちがみくんも自分の文章って演出過剰気味だと思いません?(そこか) わかりやすく言えば宝塚。(で私的には過剰と透明のあいだにいて不思議なバランスで両方もっているひとが演劇界の蜷川監督)

    では過剰がキライなのかといえば、けっこう好き。たとえばいまの大河ドラマの画面作りがけっこう過剰気味。カメラが風景に寄りすぎで見づらいし色も光もむっとしてて気持ちわるいしかなり主観カメラ(幻想)はいってません? あれ、とってもおもしろいですね。

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  31. どういう(画面作りの)意図なのか知りたいなあ。

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  32. 主観と近接、客観と俯瞰にそれぞれ親和性が高いとは思いますが、イコールではないと思います。文章でも、前回のあらすじや、状況把握的な文章を書く時は俯瞰視点で描きますし、感情的なシーンでは、クローズアップしたような手法をよく使います(僕は、意識してそうします)。

    (一方で、主観で俯瞰、客観で近接もありだろうと)

    このあたり、文章だけじゃなく、カメラや映像の世界でもそうなんじゃないかと想像はするんだけど、実際のところもききたいところですねー。

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  33. 観覧車が輪廻のメタファー。マニ車も輪廻のメタファーなんだろうし、曼荼羅もね。

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  34. 「輪廻」の話でいうと、紙よりも軽い人の命というものがあって、「もの食う人々」の中では、難民キャンプの生活、その中でも残飯食といったものを通して、僕らは嫌悪感とともに、命の紙のような軽さを感じる。

    それは海の向こうの、これまたカオスの極みのようなインドだから、ということで他人ごとのように覗き見するんだけど、開高健の舌と胃袋を通して「味わされる」。

    そして、気づかない人は気づかないんだろうし、ひょっとしたら、より気づかなくなっているかもしれないけど、別に他人事でなく、「紙よりも軽い命」は、目の前に、足下に、ごろりと転がっている。

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